2014年10月20日月曜日

黒川温泉のランキング 歴史

                    黒川温泉


 
全国屈指の人気温泉地として知られ、2009年版ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで、

温泉地としては異例の二つ星で掲載された。

田の原川の渓谷の両側に24軒のこぢんまりとした和風旅館が建ち並でいる。

 温泉街としては川の流れに沿って、東西に延伸しつつある。

 渓谷にある温泉地であることから収容人数は少なく、歓楽的要素や派手な看板を廃して統一的な町並みを形成する方策を採っているため、落ち着いた雰囲気がいい。

 1964年に南小国温泉の一部として国民保養温泉地に指定され、

かつやまなみハイウェイが開通したことで黒川温泉は一時的に盛り上がりを見せブームになる。

 ブームは数年しか続かず、増築をした旅館の多くは多額の借金をかかえ、さびれていった。

 そんな時代でも1軒だけ客足の絶えない宿があったが、

それが黒川温泉の父ともいわれる後藤哲也氏の経営する新明館です。

  現在の黒川温泉の原点となっている宿泊施設である。







 当時24歳の後藤さんは裏山にノミ1本で洞窟を掘り始めた。

「風呂に魅力がなければ客は来ない」と考えていた後藤さんは3年半の歳月をかけ、
間口2m、奥行き30mの洞窟を完成させた。

 そこへ温泉を引き洞窟風呂として客に提供したのだ。

 さらに、後藤さんは裏山から何の変哲もない多くの雑木を運び入れ、

 あるがままの自然を感じさせる露天風呂を造った。

他の旅館の経営者が後藤の教えに倣って露天風呂を造ってみたところ、

噂を聞いた女性客が続々と訪れだした。


 後藤さんを奇人変人扱いしていた他の経営者たちも彼を師匠と仰ぎ、そのノウハウを請い、実践に移していった。後藤氏の指導の下、すべての旅館で自然を感じさせる露天風呂を造ることにした。

 その中で、露天風呂を造れない旅館があった。

  それならいっそのこと、すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施された。

   町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、
町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去した。

 その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には鄙びた湯の町情緒が蘇ったのである。

 


 共同浴場・穴湯

ほとんどの旅館に露天風呂があり、宿泊旅行者は「入湯手形」を購入することにより、

3カ所まで選んで入浴することができる。
 
 特別な宣伝はせず、口コミで評判を広げる方法がとられた。

 口コミはインターネットなどでも広がり、ゴーストタウン同然だった当温泉街が
人気温泉へと変貌を遂げるようになった。

 1998年に福岡の旅行情報誌「じゃらん九州発」の人気観光地調査で第1位となる。

 2000年以後にはテレビ番組や各種雑誌などにも盛んに採り上げられるようになり、
知名度は一躍全国区となった。




 
 評判は海外にも発信され、現在ではアジア諸国や欧米からの来湯者も多くなった。

 黒川温泉は全国の温泉経営者や旅館組合関係者が、成功のビジネスモデルを見学、

視察に訪れるようになっている。

大分県の湯布院温泉の人気





由布院温泉(ゆふいんおんせん)は、大分県由布市湯布院町(旧国豊後国速見郡)にある温泉。

すぐそばに聳える由布岳(火山:標高1,584m)の恵みを受けた豊富な湯量を誇っている。

 地域の特徴を生かした、温泉街を目指して、成功した地域である。
 まず恵まれた、温泉湧出量は毎分38,600Lで、全国3位の量である。
 源泉の数は852本存在し、これは別府温泉に次いで全国第2位なのである。
バブルの乱開発を逃れ、今の湯布院温泉ブランドが確立しているのは訳がある。
湯布院の発展の歴史
油屋が開発 
由布院の静かで田園的な温泉地・温泉郷というイメージはかなり前からあった。

 由布院を最初に温泉保養地にしたのは、大正時代この地に自分の私的な
別荘を作った油屋熊八さんです。

油屋熊八さんは、別府における近代的温泉地づくりの元祖で、
亀の井ホテル・亀の井バスの創設者でもある。

彼は由布岳の麓の静かな温泉地が気に入り、金鱗湖の畔に私的な奥座敷として別荘を建設した。

 そして亀の井ホテルの客や、内外から著名人を招き接待をしていたのです。

 彼はこの別荘(現在の亀の井別荘)の管理を中谷巳次郎に任せ、この後に旅館も数軒建てられた。

大正末期には「ロマン主義」を携えてドイツ留学から帰国した林学博士や、

本多静六氏がこの地で『由布院温泉発展策』という講演を行い、ドイツのバーデンバーデンに学ぶ、

自然を多く取り入れた静かな温泉地づくりを提案している。

 温泉を中心とした街のあり方を考える、人々が表れている。

 1971年6月、「明日の由布院を考える会」の中心メンバーだった志手さん、

溝口さん、中谷さんの三人の青年は、欧州へ50日間に及ぶ町づくり視察研修旅行に

旅立つことになる。

 そして、西ドイツ(当時)の保養温泉地構想を学び、理想を胸に帰国する。

先に西ドイツを視察し、理想の保養温泉地を頭に描いていた

岩男町長はじめ関係者の大きな期待がかかっていた。

 この様に、温泉の構想は、人材育成から始まったのです。

欧州でつかんだもの、それはその後の由布院のありかたを決定付けるものとなりました。

 そう、湯布院は明確なイメージのもとに、時間をかけて作られてきた街なのである。






 湯布院温泉の宣伝

 多くの温泉街が、衰退をたどる中、先を見越したキャンーペーンが成功を収めてきた。
 
 その1つが、手作りイベントを企画して、温泉だけでない、街の魅力を作り出す努力がされてきた。

  どの様に、湯布院の知名度を上げてきたのだろうか。 

 「手づくり」の「ゆふいん音楽祭」
 「午喰い絶叫大会」1976年10月開始し現在まで開催されている。






1975年8月開始され2009年まで開催された。

 「湯布院映画祭」1976年8月開始と、様々な文化的イベントを立ち上げた。

そのどれもが成功し、芸能人、知識人等都会の人間も巻き込みながら、温泉だけでなく「芸術の町」由布院の存在を全国的に有名にし湯布院ブランドを形造るものとなった。




 リピート客を増やす努力

  温泉街にありがちな歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。

   このような、街つくりには、長年心がくだかれてきた。

 バブル期の大型開発計画は、適正な規模や景観を守るため大きな挑戦となったが、
抵抗運動が行われて景観が守られて来た。

人気の過熱が続く現在も、街の景観も変わりつつあり、温泉のあり方についての模索が続いている。

湯布院温泉特集